縄文時代とその前後

 縄文時代とその前後の時期について、まだ僅かですが、調べたことや考えたことを書こうと思います。 

 

 今から約1万年前、氷河期が終わり地球が暖かくなると、それに伴い諸々の環境も変化しました。海面の高さは上昇し、広葉樹林も見られるようになりました。当然、日本列島に住んでいる人々の生活も、その変化に対応するように変わってゆきます。この変化後の文化を縄文文化といい、今から数千年前まで続きました。

 縄文文化と、それまでの文化ではいったいどこが違うのでしょうか。「定住」は、一つの要点のようです。縄文文化の代表的なものといえば、その名にもあるように、縄目の文様のついた土器だと思いますが、あちこち移住するなら、重い土器は持ち運べないでしょう。また、縄文時代は海面が上昇しましたから、あちこちで入江ができ、漁労も発達しました。魚を取って生活できるなら、狩猟中心の生活よりも一箇所に長く留まりやすいのではないか、という説もあります(日本史リブレット2)。ただ、定住や移住といっても様々でしょうし、それに縄文以前の寒い時代に、移住する生活でどうやって寒さをしのいでいたのかという疑問も残ります。洞穴などに住んでいたのでしょうが、寒い時代には定住できない理由があるのでしょうか。旧石器時代の頃と違い小型の動物が増えたことも原因でしょうか。もう少し調べて、また書きたいと思います。

 

 代表的な住居としては竪穴住居が挙げられます。縄文時代は、それ以前と比べると暖かくなったとはいえ防寒は必要です。地面に穴を掘って作る竪穴住居は、これは世界的にも日本より以北の地域で見られる住居で、内部を暖かく保つための構造のようです。青森の三内丸山遺跡には行ったことがありますが、とても大きくて驚いた記憶があります。東北の、雪の降る寒い冬も乗り越えられたということですよね。

 

 縄文時代には、まだ農耕は普及しておらず、木の実や動物、植物まで幅広くいろいろなものを食べていたようです。「特定の食べ物に依存することがないから、飢えることがない。不作に苦しむようになるのは農耕が始まってからのことだ」というような話を聞いたことがありますが、本当だとしたら興味深いなあと思います。

 

わかったことがあれば随時書き足していこうと思います。

 

参考文献

岡村道雄『日本の歴史01 縄文の生活誌』講談社 2008年

今村啓爾『山川日本史リブレット2 縄文の豊かさと限界』山川出版社 2002年

林達夫縄文人の文化力』新書館 1999年

安斎正人『縄文人の生活世界 日本歴史 私の最新講義』敬文社 2015年

 

 

IS壊滅近し

数日前、久しぶりにIS関連のニュースが朝日新聞の一面に載りましたね(夕刊ですが)。

別のところのですが貼っておきます。

news.livedoor.com

 

モスル奪還作戦がかなり進んでいることは知っていましたが、いよいよ最終段階も大詰めでしょうか。三年前に国家樹立宣言をしてから、随分と長いこと生きながらえましたね。しかしそれももう終わりです。各国軍とIS支配地域の住民は想像を絶する緊張感と疲労に襲われているに違いないでしょうが、住民の盾を用いた抵抗は激しさを増し、そう簡単にはいかないかもしれません。そしてISがなくなったとしても、また新たな混乱と対立・紛争が生まれることに疑いはないです。この地域では、何百年も前からその繰り返しなんですから。

 

僕なんかができることはほとんどないですが、それでも関心を失わず日々ニュースに接していこうと思います。

 

 

EU、中国批判の声明発せられず

ここに投稿するのも久しぶりですね。

 

ニュースを見ていたら気になる記事が。

www.sankei.com

 

EUが中国が自国民の人権を侵していることに対して批判の声明を出そうとしたところ、ギリシャが反対して頓挫してしまった、というものです。

 

ギリシャは「批判したところで状況が改善するわけではない」と言っているようですが、これは詭弁です。ギリシャの言い分は、事実に背くわけではないでしょうが、沈黙は中国の体制の容認につながってしまうと思います。人権蹂躙を批判する声は、常に存在しなくてはいけないものでしょう。

 

上の産経の記事では、「ロイターによれば、声明にはEU全28加盟国の賛成が必要で、EUが人権理事会で対中批判の声明のとりまとめに失敗したのは初めて」とのこと。ギリシャとしては、今後一帯一路計画で深く関わるであろう中国に対して、関係を悪化させるようなことは避けたかったというところでしょうかね。

 

それではまた。

幸福について

 いま幸せかと問われて、素直に首を振る人間がどれだけいるのでしょう。少なくとも僕は、答えに窮してしまいます。衣食住に困っているわけでもなく、何か病気になっているわけでもないというのに、果たして何が足りないというのか。恋人でしょうか?(笑) それもあるのかもしれませんが、そういう問題ではないと思います。
 ところで、明日の生活が保障されている生物が一体、この地球上にどれだけいるのでしょうか。生態系にそんなに詳しいわけではないですからいい加減なことは言えませんが、おそらくは人間と、人間に飼われているペットくらいのもんでしょう。
 かつての人類は(そして今も多くの生物は)、毎日死と隣り合わせの生活を営んでいました。病気、紛争や殺し合い、動物に襲われるなど。今のような過食の時代でもなかった。色々な恐怖を感じることも多かったでしょう。身近な人を失うことも多かった。そういう日々を過ごしていた彼らは、毎日のほんの些細なことにありがたみを感じ、幸福を見出していたのではないかと思うのです。色々な恐怖を乗り越え、その日の夜に家族と食卓を囲めただけで幸せだったんじゃないかなぁ。あくまで想像の域を過ぎないんですが。
 現在は人類が食物連鎖の頂点に立っていて、食べるものも、寝る場所も、身の安全も、ほとんど保障されていて(されていない方もいます。彼らからしたら、僕のような者は贅沢な人間にしか見えないでしょう)、死が頭をよぎるような恐怖に襲われることもほとんどないです。そういうことが当たり前すぎて、もう慣れてしまっているんですよね。だから、それだけ恵まれた状況に置かれながら、幸福かと聞かれてもすぐにウンと言えないんだと思います。
 今の生活の中で死の恐怖を感じることはやや難しいですが、少し食事を抜いてみたり(一日三食は食べすぎだと僕は思っています)、世の中の貧困に目を向けたりすると、今の自分の環境のありがたさがわかるようになるのかもしれません。今もなお、考えられないような苦しい生活を送っている人々が世の中にはたくさんいるのに、彼らの姿からは目を背けてしまいがちですから。

 

あまりまとまっていませんが、あえてこのままにします。

感性について

「鯉のぼり」という民謡があります。「屋根より高い・・・」ではない方です。著作権も切れていると思うので、歌詞の一番だけ載せますね。
「いらかの波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり」

いらかとは、瓦のことです。今でも屋根が瓦でできている家がありますが、あれが波のように見え、また上を見上げるとそこでもまた雲が波を成している、ということですね。「いらかの波」、言われてみれば確かに波に見えますが、日頃からよく周りを眺め、いろんなことを考えている人でないと普通はそんなことには気づけないと思います。よっぽど感性豊かな人なんでしょうね。この作詞者が不明なのを非常に残念に思います。こういう素敵な作品があったらもっと知りたいなあと思いました。詩の本も何冊か買ったり借りたりしていま、読んでいます。

感性は、何も芸術だけにとどまらず、学問の研究の世界でも活きてくると思いますね。
例を挙げると、ついこの間微生物に関する本を買ったんです。

www.amazon.co.jp

曰く、そこらへんの土をスプーンで一杯すくうと、その中には微生物が50億〜100億ほどいるらしいんです。

僕は、まあそれくらいかなあ、と流してしまったんですが、筆者は「このスプーン一杯の土の中に、地球のような世界が広がっている!」と言うんですね。現在の世界の人口が70億ですからそれと同じくらいですし、微生物と一口に言ってもその種類は数え切れないほどあるわけで、それだけの数がいたらその環境を維持するために色々な工夫や相互作用があるはずだと。こういう捉え方もあるんだと思うと、とても面白く感じてきませんか?僕はすごく興味が湧きました。

こういうことに気づけることが、感性なんじゃないかなと思います。当たり前のことに対して、どれだけ豊かな捉え方ができるか。知識があれば良いというものでもないですよね。感性を磨きたいなぁって思いました。

日韓関係について

「今の時代に日韓関係を改善すべきか否か」というディベートに来週参加する予定なので、自分の考えをまとめておこうと思います。

まず、日韓関係の改善を考えるにあたりその言葉を以下の二つの意味に分けます。
(1)国民間の関係の改善
(2)国家間の関係の改善

 

結論から言うと、(1)には賛成ですが(2)の現時点での実行にはやや反対です。

そりゃあ、どちらも改善すべきかどうかと言われれば改善すべきなんですが(良くなることを改善というのですから)、それでは討論にならないので、ここでは討論の題の「今の時代に」というところに着目して話を進めていきます。
そこで(1)は、偏見や風潮に基づく差別をやめて、互いの理解を深めようと努めることなどを指すとしましょう。
僕はこれについては概ね賛成です。各々個人的な好き嫌いはあるのでしょうし、それはそれで仕方のないことなので、特別仲良くする必要もないとは思います。ですが少なくとも侮蔑的な発言や書き込みは今すぐやめるべきです。よほど偏った思想に囚われた方でない限り、これに反論される方はおそらくいらっしゃらないだろうと思います。

しかし、「差別発言反対」なんていっていたところで状況が改善するわけではありません。では、どうするのか?僕は教育しかないと思っています。きちんとした教育を通じて、正しい知識を身につけて、まっすぐに歴史を見つめることで偏見と先入観を排除し、対立を煽る風潮に流されない人間になる。国民の意識が変わるのには何十年を要するでしょう。何百年と拭いきれなかった互いの嫌悪感が、一年や二年で解消されるなんてことはあり得ません。ヨーロッパだって、300年の間に三十年戦争と二度の対戦を経験して、それでようやくECSCができたのですから。遠い先を見据えた教育が最も必要だと思います。
幸いなことに、政府が行った全国世論調査によれば、日本では世代が若くなるにつれ韓国への抵抗感が薄れていく傾向が読み取れます。僕は不可能ではないと思いますね。

 

一方、(2)については僕は慎重派です。というより、(1)がそれなりの水準でクリアされていない限り(2)は現実的に難しいと思います。

韓国では、反日を掲げなければ大統領になれないような状況です。2015年の日韓合意にも納得できていない国民も多い。また日本でも、Yahoo!Newsなどインターネット上では韓国人に対する侮蔑的な書き込みが相次ぐ始末(書いている人数は日本国民全体から見れば少数かもしれませんが、それに賛同するユーザーが反対するユーザーを大きく上回っているのです)。こんな状態では、日本と韓国の関係を強めていくのは世論の反発があり容易ではないでしょう。北朝鮮に向き合う際に連携は必要だと思いますが、それは日韓関係を本質的に改善することにはならないでしょう。

 

というように、まず教育を通じて(1)を実現するだけでかなりの年数を重ねなくてはいけないため、(2)はまたそのさらに先になるのでしょう。「今の時代」というのがどこまでを指すのか曖昧ですが、ここでは(1)の改善を「今の時代」にやったとすると、(2)の意味での改善は「次の時代」に当たるだろうと考えることにしました。

 

ディベートまではまだ時間があるので、もう少し色々調べて考えて、また追記します。 

北朝鮮と核

四月は、北朝鮮情勢が一気に緊迫した月でした。まだまだニュースから目が離せない日々が続きますね。

とはいえ実際には、特に注目された4月15日も4月25日も、結局核実験は行われませんでした。

それでも15日と29日には弾道ミサイルを発射しましたし(いずれも失敗しましたが)、26日には大規模な砲撃実験を行いましたね。

このミサイル失敗は、アメリカのサイバー攻撃によるものだという見方も一部にはあるようです。

【北朝鮮情勢】サイバー攻撃で実験妨害か 米軍、北朝鮮ミサイル標的 失敗率88%のミサイルも - 産経ニュース

砲撃訓練の映像はニュースで見ましたが凄まじかったです。

 

また29日は、鉄道機関がいくつか停止したことも話題になりました。着弾するということになれば、動いていたって変わらないのかもしれませんが。ビビりすぎだという声もあるようですが、僕は安全策をとって多少停止させたって別段構わないと思います。10分程度だったみたいですし。

 

今回の緊迫した状況を巡って、危機感を抱くべきだという意見もあれば、煽られるのは愚かだという意見もあります。僕は、個人的には一国民として多少は危機感を持っておかなくてはと思っています。何が起こるかわかりませんから。とは言っても、せめてニュースを見るくらいはしておこう、くらいなもんですけど。

 

核について

 

これは、昨年9月に北朝鮮が第五回の核実験を行ったときから思っていることなのですが、果たして日本は、北朝鮮に対して一体どういう理由で核の開発をやめろと言うのでしょうか?日本はアメリカの核の傘に守られていながら、北朝鮮に対してはそれを放棄しろと言う。別に僕は北朝鮮を擁護したいわけでもなんでもないですが、向こうからしたら、それはちょっと待てとなるのではないか?北朝鮮の核実験を受けて、アメリカは当然強く批判しましたが、アメリカだってかつて核実験をしているではないですか。自分は核を作っておきながら、後になってそれを持とうとする国を批判するというのはいささか理不尽に思えます。

 

そもそも僕は、核のない世界なんて平和とは程遠い世界だと思っています。仮に、核あるいはそれ以上の威力の兵器が地球上に一切存在しないとしましょう。もしそこで、とある国が核を開発してしまえば、その国の相対的な軍事力は一気に高まってしまいます。つまり、核のない世界というのは不安定極まりない世界であり、非常に危険です。

ともすれば、二度も原爆を投下されている日本人としては、核の廃絶を唱えていくべきなのかもしれませんが、上記の理由から僕は核という重しは世界の安定のために必要であると考えています。それを使うのは最悪ですが、使わないのならばあったほうがいい。それに、世界から核を完全になくすというのは現実的に不可能でしょう。仮に各国が核をなくそうと努めたとしても、それに代わる兵器を持とうとするに決まっています。結局それでは意味がない。

 

話を戻しますと、核保有国による核非保有国の核開発への批判に正当性を与えるためには、核保有国が、核なき世界を目指し核保有量を減らす努力が条件となるでしょう。しかし上で述べたように核なき世界の実現など目指すべきではない。したがって、核開発の放棄を迫る正当性はどこにも見出すことはできません。

 

 

僕自身、独裁政権である上に軍事的挑発を繰り返している北朝鮮は信用できませんから、同国が核を持つことは当然安心できることではありませんが、結局それを放棄させることは、現時点では諦めるしかないのかもしれないと思っています。

 

終わりに

思っていることをつらつらと書いてみましたが、自分の勉強不足を実感しました。特に核についてはもっと知識や考えを深める必要があると思いました。今後、意見が変わることもあるかもしれません。

何か思うことのあった方は、ぜひコメントやブックマーク、あるいはツイッターのDMでも構いません、ぜひ議論しましょう。